ロゴ専門デザイン会社の株式会社ビズアップ。
小中学生時代、普通すぎて存在感のない自分に強いコンプレックスを持ち、人とは違う行動をしてきたという津久井社長の人生に迫ります!
普通な自分が嫌いだった小中学生時代
まず子どもの頃のお話から伺いたいのですが、津久井さんはどんなお子さんでしたか?
僕は一人っ子なので、兄弟との比較がない分、自己重要度というのは高かったと思うんです。
ただ、小学校に入って周りには運動ができる子、勉強ができる子、先生に好かれている子、モテる子、クラスの人気者とかがいて、そういうどれにもなれなかったので、それがすごい嫌でした。
どうしたら目立てるんだろう?と思いつつもなかなかできず、ずっと人と勝手に比較して勝手にいじけるみたいな子どもでした(笑)
あとは従業員の方が家に遊びに来たりメーカーさんが家に来る度に、可愛がってもらっていました。
そこで可愛がっていただいていたという状況と学校とのギャップみたいなものがあったのですか?
サッカーをずっとやっていたのですが、中3の時の最後の大会ではベンチにも入れませんでした。
最後の練馬区大会で決勝戦まで勝ち進み、勝ったら都大会というところで、珍しくうちの親も観に来ていたんですけど、うちの親含む大勢の保護者の目の前で顧問の先生に「津久井!ゴメン!ベンチにも入れてあげられない!」と言われ、選手としての登録すらしてもらえませんでした。
ちなみに、そのチームのエースが僕の3歳からの幼馴染なんですけど、彼は僕が欲しい要素を全部持っていました。
面白くて、女の子にモテて、先輩に好かれて、後輩にも慕われて、先生にも一目置かれて、サッカー部のエースみたいな。
それで比較して僕はまた勝手にいじけていくという感じでしたね(笑)
クラスの中心メンバーの不良集団とオタク集団のちょうど間にいる、どっちにも属すわけではないような子どもでした。
自信を持てた高校時代
プロフィール上だと好きな女の子を追いかけられたということなんですけど、それは本当なんですか?
だけど今思うと、普通が嫌だったので人と違う行動をしたかったんだと思います。
大体みんな自分より上を目指すので、他に下を目指していた人はいなかったですね。
高校での3年間はどのような活動をされていたんですか?
バンド活動も始めたりしてクラスでも目立っていたので市民権を得まして(笑)割と中心メンバーになることができました。
結構楽しい高校生活でしたね。
気の持ちようという話なんですけど、自分に価値があると思っているかないと思っているか、スイッチが入っているか入っていないかだけだったと思います。
大学も良い国立大学に行けましたし、本当にラッキーでした。
それで国立大学を受けることになり、良かった内申を生かして推薦で受けました。
筆記試験はダメでしたけど、面接でベラベラ喋ったら合格しまして、おバカな高校でしたから、その学校では数十年ぶりの快挙ということで朝礼で発表されたんです。
結果的に高校の時には色々なものを手に入れることができたという感じがします。
バンド活動に集中
冷めてしまって、一切飲み会や合コンに行かなくなったんです。
その時のきっかけの1つに、高校時代から組んでいたバンドを知らない間に追い出されたということがあります。
僕はボーカルだったんですけど、最近練習ないなと思っていたらボーカルを入れ替えられていたんですね。
知らない間にクビになっていたんです。
そういうのもあって、いろんな物事に冷め出して、家で1人で電気を消してギターを弾いているみたいな、ちょっと暗い感じの青年になってしまいました(笑)
オリジナルの曲を作り、大学4年の時にはインディーズからCDを出すほど精力的に活動していました。
音楽で飯を食いたいと思い、就職活動が始まるくらいの時期にはバンド仲間と「1、2年フリーターをやってミュージシャンをやろう」という話をしていて、「俺の人生音楽で勝負を賭けよう」と思っていました。
でもその後、メンバーのボーカルが内緒で就活をしていたことが分かったんです。それで僕も慌てて就活を始めました。
でも音楽も辞めたくないから、本気でやるんだったら一緒に住んで、仕事から帰ってきて曲作りができるくらいじゃないと駄目だということで、新社会人になる時にはバンドのメンバーと一緒に住んで、そこから社会人をやりながら音楽もやっていたという感じです。
ただ、それで燃え尽き症候群になってしまい、4、5カ月くらいライブをやらなくなって、メンバーとの関係性も悪化していきました。
そして別々に住むようになり、挙句の果てには、超大切なライブの当日にボーカルがプチ失踪して来ないという…。
そこから起業をしようと思われたのですか?
起業しかないかなと思いました。
結局存在価値を高めたくてしょうがない承認欲求強めな人間なので(笑)バンドで有名になれないのであれば、社長をやるしかないなと。
親もやっていましたし、心のどこかで将来バンドが駄目だったら起業しようとは思っていました。
でもまだまだ足りないから、ひとまず真面目に仕事をしようと思って心を入れ替えて仕事をしました。
3社で修行を積み、起業へ
将来的に起業する可能性も考えて、小さいところで社長の近くで仕事ができて、1から10まで何でも勉強させてもらえるところがいいなと思っていたんです。
それでデザイン、印刷、販売促進をやっている小さなデザイン会社に入りました。
2社目はネットで探している中、当時の僕と同い年の28歳の社長の会社が出てきて、興味を持って面接を受けに行ったんです。
親が薬屋だったということもあって健康関係の事業に興味があると言ったら、分社化したばかりの健康関係事業を紹介されて、そこに営業として入ったという感じです。
その会社の取締役(師匠)とは仲良くさせてもらい、ほどなくして直属の部下になりました。
その方がマーケティングに優れていて、知りたかった心理学的なアプローチ(ダイレクトマーケティング)を仕事を通して叩き込んでもらえました。なので僕の中ではそのおかげで独立できたというのはあります。
3社目では、独立前の総仕上げじゃないですけど何でもやっていました。
2社目の時の外注先の社長が友人と新会社をつくるということで誘っていただき、その方のアシスタントみたいな感じで飲食店のコンサルみたいなことをやっていました。
メニューのデザイン、料理の撮影、フランチャイズの営業、楽天ショップの構築と店長、デザイナーの採用と教育、コントの台本づくり(笑)、何から何までやりました。
ちょうどその頃、結婚して妻が妊娠したんです。
子どもが生まれたら逆に守りに入ってしまうと思ったので、これはもしかしたら生まれてくる子どもが期限付きでチャレンジしろと俺に言っているんじゃないか?とすごい解釈を、謎の思い込みをしました。
それで妻に「子どもが生まれても飯食えなかったら会社員に戻るからチャレンジさせてください」と言って、独立に踏み切りました。
ヒツジの群れにオオカミを放つ
旧態依然としたぬるい業界に新しい切り口とか価値観で入ったら勝てる可能性があるという意味です。
なので、マーケティングが弱い業界に入りたいと思っていました。
さらにお金がないので在庫のリスクや人件費、固定費もあまり持てない。
結果、仕事単位でお金の発生の有無が決まるデザイン業界でやっていくことにしました。
当時デザイン業界はマーケティングが弱かったですし、業界的にフリーランスのデザイナーさんがいることも知っていたので人件費も変動費化できると思いました。
そしてデザイン業界の中でも専門特化しようとなった時にロゴだなと、ある朝散歩しながら思いつきました。
すぐ競合を調べたりして、案の定これは勝てそうだと思って、そこからです。
最初はインターネットで広告を出してもうまく集客できませんでした。
それで先程もお話した前職の師匠に連絡をしてネット広告のアドバイスをもらったんです。それからはどんどん依頼のメールが来るようになりました。
でも今度は外注のデザイナーさんを確保するのに苦労しました。
うちは最初に無料で3案を提案するスタイルなのですが、デザイナーさんは嫌がるんですよね。
だから変な人しか来なくて、お客さんに出せないようなものを作ってくるので僕が夜中まで作り直して提出するということをやったりしていました。
でもこれではいけないと思い、マーケティング理論に基づいて当時流行っていたmixiでデザイナーの募集をかけたんです。
それがうまくいって何とか軌道に乗りました。
それが起業して2カ月目くらいの時です。
これはグラフィックデザインの世界だと、どういうものを作ったらいいのかをデザイナーに指示することですね。
お客さんの要望をヒアリングして、それを伝えるというディレクションがすごく強い会社だと思います。
これから会社をどういう風に大きくしていきたいのか、こういう世界観を作りたいとかありますか?
デザインってまだまだお金を払える企業とお金をたくさん取る広告代理店みたいな構造があります。
それをもっと中小企業さんでも活用できるようにしていきたい。
企業や店舗などの存在感をデザインとブランディングを駆使して広く世の中に知ってもらえるように、ロゴマークをもっとたくさんの会社に提供していける会社になったら面白いんじゃないかなと考えています。
行動しなければ何も変わらない
偏差値下げて高校受けたりとか(笑)みんな大手を目指しているのに中小企業に入ったりとか、それで見えてきたものはいっぱいあったなと感じています。
とにかく動いてみて、そして10動くのであれば、そのうち半分くらいは人と違うことをやってみても面白いと思います。
ありがとうございました!