LINEに特化したマーケティングツール「Liny (リニー)」を開発・運営されているソーシャルデータバンク株式会社。その根本にあるものは「お客様の課題を解決したい、人助けをしたい」という想いと、南アフリカでの日々だった———。
副社長の中塚さんにお話を伺いました。
学生時代にはロサンゼルスへ留学。期間限定で社会人を経験した後に、2005年に南アフリカ共和国に留学。グローバルな家庭環境で育ち、アメリカでドクターナースをしている弟と、オーストラリア、香港、シンガポールなど海外を転々としながらバリスタをしている弟がいる。
お客様の問題を解決したい
早速ですが、事業内容について教えてください。
LINEにはビジネスで使われる「LINE公式アカウント / 旧LINE@(以下、LINE公式アカウント)」というビジネス用のアカウントがあります。
このLINE公式アカウント上で、「顧客のニーズに合わせたセグメント配信」「顧客のウギ機を可視化するスコアリング」や「カルテのように細かく顧客の管理」ができるLiny(リニー)の企画、開発、販売を行っています。
引用:Liny(リニー)HP
弊社代表の伊藤がいまもエンジニアなんですが、創業前の話に遡りますが、彼の友人がLINE公式アカウントを使って学生たちに受験英語を教えていました。
LINE公式アカウントでは、例えば1,000人の生徒がいたら、先生1人から1,000人に対してのメッセージが送れます。でも、生徒の英語のレベルは全員一緒じゃないですよね。高いレベルの子たちに合わせて一斉配信ばかりしていると、どうしてもついていけない生徒がでてきてしまうので、生徒たちのそれぞれのレベルに合った情報をLINEで発信できないか!?と伊藤に相談がありました。
それで、伊藤が生徒の管理と対応の効率化ができるようなLiny(リニー)のβ版を作り上げたことがきっかけです。
そうなんです。わたしたちは、ビジネスの本質って「お客様の問題解決」であると考えているのですが、Liny(リニー)は、まさにリアルに困っていることに対して、こういうソリューションを提供できたというところから始まっています。
引用:Liny活用ブログ
β版が大変な好評を得たことで、近い将来このサービスはたくさんの人や企業を助けるだろうと思ったんです。それから、このサービスをどのように世の中に知ってもらい、広げていけばいいのかとマーケティングの設計を担当させてもらいました。
代表の伊藤は、わたしの年齢からすると弟以上に離れているのですが、一言でいうと、天才がこんなところにいる!という印象でした。頭の回転もずば抜けて早く、行動へ移すタイミングや決断のスピードも含めて、他の人には感じたことがない言葉では言い表せない特別なものを感じました。
思い返せば、彼に惚れ込んだという感じです。
こういう出会いって、普段の生活の中では、なかなかないじゃないですか?(笑)
生きる力を身に付けるため単身、南アフリカ共和国へ
帰ってきてからは、関西電力系の子会社に入社しまして、そこで8年間サラリーマンをやっていたんです。もともと独立志向が強かったので、修行をさせていただきました。入社後は営業でしたが、紆余曲折を経てマネージャー職になり、売上を達成させるセールスパーソンの育て方や、戦う組織をどうやってつくるのかということをやっているうちに、
これはビジネスになるなということに気付きで退職し、独立したんです。独立してからは営業研修事業会社を設立して、企業研修やコンサルティングをしていました。そんな活動をしていた中で、運命的に伊藤に出会いました。
朝は毎日現地の学校に通っていました。昼から授業がある日もありましたが、ない日はボランティアに行ってましたね。そして、夕方からはアルバイトをしていました。めちゃくちゃ働いても月4万円くらいしか稼げないんですけどね。
引用:VectorWorldMap.com
ネルソン・マンデラ氏とは⇒南アフリカ共和国を人種隔離政策というアパルトヘイトから解放した人権の闘士で、黒人初の大領領です。
白人と非白人の関係を規定する人類史上もっとも悪名高い人種差別政策の一つです。うーん、わかりやすく例えると、海に行くとビーチがあるんですが、そのビーチには白人しか入れないんです。つまり、黒人は海には入れません。彼らは、ビーチのそばにある石で囲まれたプールにしかはいれなかったりします。
はじまった理由は、信じられないほどのバカげた白人の優越感が関係しています。また、正論であるかのように、アパルトヘイトの発端を宗教的な理由にも紐づけています。が、それを話し出すと、時間が足りません。なので、簡潔にお話しすると、これは奴隷制度ですね。
遠い昔、南アフリカにあった金や鉱石をはじめとする豊富な資源に白人が目を付け、それらを利権化しました。そして、労働力を担保するために、その地に古来より住んでいた黒人たちを法のもと統制下におきました。
そして、白人の利権を守るために、人種主義的な教育体制を形成し、黒人に対しては、、民族としての地位、誇り、名誉も奪い、劣等民族であることを国家ぐるみで植え付けていったんです。
さきほども触れましたが、白人と同じ海とかプールに入るなということを、法律で定めていたんです。
ほかにも、バスを乗るのも、住むところも、トイレも映画館やレストラン、もちろん学校にいたるまで、白人と非白人、とりわけ黒人は、分断されていたんです。
今でも忘れられない話が、2つあります。1つは、白人専用の公園などの場所に入った黒人はすぐに逮捕されいたということ。
もう一つは、想像を絶しますが、白人による黒人狩りですね。白人がその日の気分で、黒人を銃で打ち殺す、そういった遊びまであったんです。
こういう考えや行いが、1994年の撤廃まで当たり前だったとか、日本じゃ考えられませんよね。
黒人が人間として扱われなかった国で、人間は皆平等であると、この悪名高き人種差別を撤廃し、南アフリカ共和国を開放し、初の黒人大統領となったのがネルソン・マンデラ氏なんです。
長くなりましたが、その記事をアメリカで読んで、僕は、南アフリカ共和奥に行かなくてはいけないと思いました。
引用:unsplash
はい。大きな理由は、今後世界がどんどん変わっていく中で、僕が時代の変化に対応して生きていけるのか、生きる力を身に付けられるのは多分アメリカではないと思ったんです。もっと僕のことを誰も知らない国に行って、言葉も通じない国に行って、しかも歴史的背景にとても厳しい人種差別があった場所で生活をすることで、今後の人生を生きていく上での基盤となるものを作れるんじゃないかと思い決意したんです。
親は、反対はしませんでしたが、空港で見送ってくれたときに、泣いていたそうです。死んだ祖母がコッソリ教えてくれました。(笑)
人助けをして周りにいる人を幸せにしたい
南アフリカ共和国で感じたことは、結局、非白人と分けられた黒人たちは、教育を受けていないので、人の物を平気で盗む、人を殴る蹴る、殺すこともいとわない、それが当たり前の国だったんです。まぁ、それをしないと生活ができないから仕方ないんですが。僕は、識字活動などのボランティアを通して、この国にはもっと教育が必要だということを強く感じ、教育ビジネスができるようになりたいと思いました。
でも、一方で教育だけでは食べていけないとも感じました。
道徳観や倫理観は養えたとしても、この人たちは食べられないから人を殺したり盗むわけであって、おなかいっぱい食べられるようにしなければなりません。
土地はいっぱいありますから、食べるに困っている人たちのために農業を教えるのもいいなと思ったんですが、そもそも水を引いてこなければ、農業はできないな…と。また、水をひいてきても、発電のインフラが整っていないと、安定した供給は難しいですし、当時の南アフリカは、よく停電がおきていたので、何かと問題だらけでした。
ちなみに、環境問題とりわけゴミもすごかったですよ。日本も相変わらずゴミ問題を抱えていますが、途上国ならではの問題がありました…
余談ですが、ゴミの中に、生きているのか死んでいるのかわからない人もたくさんいました。
そこで、たどり着いたのが、日本に戻ってインフラ系の会社で修行することで、南アフリカ共和国に役立てることを学べるんじゃないかと思って、サラリーマンをする決意をしたんですね。
いますね。日本じゃ動物が死体を食べて、伝染病が蔓延するといったことや、事故で怪我をした人を助けて、感染症になるといったことは、なかなか起こりえませんが、あの国ではそうではありません。
教育、農業、水、環境問題、これを一気に学べるのはどこかなと思ったときに日本だと思いました。
日本は先進国で最先端の技術もあるし、南アフリカ共和国に比べるといろいろなものが整っています。日本に一度帰って、自分が力を付けて、またアフリカに帰ろうと思ったんです。それで帰る決断をしました。今述べたこのビジネスを全部一気に学ぶのであれば、電力系の会社で働くのがいいと思ったんです。
かっこよく言いましたが、「力なき正義は無力なり」という格言があるように、当時の自分は本当に非力であり、無力でした。助けたいと思っても、誰一人助けることができませんでしたから…
引用:unsplash
そういった経緯で電力会社に入られたと、今でもその思いはあるのですか?
ちろんです。僕の将来の夢は「アフリカで教育ビジネスをすること」これは代表の伊藤も知っています。誰かを虐げて自分だけ幸せだったらいいのではなくて、周りにいる人たちも幸せにしないと、結局自分も本当の意味での幸せになれないと、南アフリカ時代に実感したんです。なので、僕は「人助けをしたい、人の役に立ちたい」という気持ちが根幹にあるんです。
僕は、たまたま日本に生まれただけで、先進国に生きる恩恵を受けていますが、アフリカでは日本では想像だにできないことで苦しんでいる人たちがいて、それを実際に目にしてしまったら、何か自分にできることはないか…って、誰だって思うんじゃないですかね。
僕は、多感な時期に貴重な経験をしたことで、それが生きる根底になったんです。
そして、その経験が当時とブレることなく、今のソーシャルデータバンクでの仕事にも続いています。
テクノロジーをボーダーレスに
まさにその通りです。テクノロジーで世界はもっと面白くなると「テクノロジーをボーダーレスに」という理念を弊社は掲げているんです。
テクノロジーはたくさんありますが、使える人たちは限られていますよね。勉強しないと使えない、システムを組まないと使えないとか。でも、例えば商店街の八百屋の親父さんであっても、テクノロジーを使うことで業務を効率化したり、売上を自動化することができたりと、本来テクノロジーはハードルが高いものであってはならないということを、大前提に考えています。
テクノロジーというのは生活を豊かにするためにあるものであって、なぜ使いにくいのか、どうして高いのか、なぜ限られた人しか使えないのか。その概念を覆したいと、僕たちの思いに共感している人間が集まっているのがソーシャルデータバンクです。
諦めずにやり続けること
ソーシャルデータバンクですが、立ち上げたときはものすごく苦労しました。
僕たちはLINEマーケティングと言葉を創業時から掲げていたのですが、そんな概念はないし、こんなツールはすぐに使えなくなると、ひどいことを散々言われ続けました。
特に、大手企業は門前払いでしたし、どこに営業に行ってもすごく悔しい思いをしました。
でも、いまは誰にでも理解されるサービスだとしなくても、必ずLINEをビジネスで利用する時代が到来して、誰もがその素晴らしさと威力を認める時代がくる!ということを信じて、地道に泥臭いことをやってきました。
それはアフリカの経験が活きていると思います。
そうです。それに、これは絶対に普及するという確信が僕たちにはあったんです。ビジネスやマーケティングをしていく上で大事なのは、コミュニケーションツールですし、インターネットが爆発的に普及したときに、電話からメールに変わったように、メールからLINEへ変わる時代がくるって。じゃぁ、実際にどうなったかというと、いまビジネス上でのコミュニケーションツールは、メールからほとんどがLINEやメッセンジャーといった、アプリに移行しましたよね。
浸透するまでに時間はかかると思いましたが、一方で必ず浸透するという確信が僕たちにはあったので、どんなに馬鹿にされたりひどい言葉を言われても、耐えてやってこれました。
何か、新しいことに取り組もうとしたときに「ドリームキラー」と言って、他人の夢や目標を潰そう、心をくじこうとする人達が現れます。
そういう人達に負けずにやれるか、打ち勝ち、走り続けることができるかです。自分たちが立ち上げたビジネスを一番信じれるのは、自分じゃないですか?それをドリームキラーにとやかく言われて、諦めるくらいなら、初めからしない方がいいですよ。
そして、信じ抜いて、走り続けてきたからこそ、掴めたチャンスがあります。
ソーシャルデータバンクだと、2018年のLINE社主催のBoot Awardの協賛企業賞の受賞や、テクノロジーパートナー、また店舗向けパートナーの認定も受けています。
また、大企業からも声をかけられるようになり、一緒にビジネスをさせていただいています。
創業当時に、描いた「いつか」が、「いま」起こっているんです。
ありがとうございます。諦めなければ夢は叶うというのは嘘だと思うんですけど、諦めなかった人間が花を咲かせているのは真実だと思うんです。21世紀の時代には、古いの考えかもしれませんが、どの道を選んでも高みに上るには努力が必要で、また、継続することが最大の近道だと思うんです。いうのは簡単ですが、実際はしんどいですけどね。(笑)